さぁ戻ろうか

　強い者が勝つんじゃない、勝った者が強いんだ。
　そう言われる高校野球の世界で、前田監督は独特の野球観を持っている。
「昔は勝てばよかった。」それはあくまでも昔の話。そう語る前田監督に変化が訪れたのは平成７年、夏の甲子園だった。

　前田三夫が38年間監督を務めてきた帝京高校野球部は甲子園で優勝３回、準優勝２回、出場回数は22回にのぼる東東京の強豪校だ。最近では06，07，09年と激戦区東東京で圧倒的な強さを示し、甲子園に出場したことは記憶に新しいだろう。しかし、その３度とも全国の頂点として歓喜の叫びをあげる姿を見ることはできなかった。
　全国制覇の最有力候補・帝京高校が歓喜の涙を流さなくなった理由はなんなのだろうか。

　平成７年夏――。帝京は痛烈なバッシングを受けた。甲子園出場をかけた都立八丈高校との一戦。実力を遺憾なく発揮すればコールド勝ちは当たり前かと思えたその一戦で、「コールド回避」をしたことが原因だった。当時のエース本家の調整登板をしたかったためだと言われている。その年の夏、帝京は全国優勝した。しかし優勝のためには手段も選ばないその姿勢は、世間に認められなかった。
「選手たちは一生懸命やったのにも関わらず、世論的には良くなかった訳で。監督としての壁にぶち当たったわけよ。」前田監督は明確な「己の野球」と言えるものを持っている。しかし新しい発見や良いと思ったところはすぐに取り入れる。鬼監督と言われるその風貌とは対照的に驚くほどに謙虚なのだ。「もっともっと指導者が高校野球というものを知らないと、犠牲になるのは選手だから。」噛みしめるように振り返るその遠くを見つめる瞳には今でも、悔しさが滲み出ていた。そんな彼が悩んだ末に考えたのは、野球の原点に返ることだった。そして野球の原点、すなわちアメリカに旅立った。その年のワールドシリーズ、ヤンキース対パドレスはヤンキースが４連勝という圧倒的な試合展開をしていた。監督が観たのはパドレスのホーム・サンディエゴで行われた後半2戦だった。
「普通は自分の応援してるチームが負けてたらヤジ飛ばすだろう？でもパドレスはさ、立ち上がって…スタンディングオベーションで拍手してたんだよ。」「あぁ、これだなぁって。」観ている人に感動してもらえる試合をしたい。それがアメリカで見つけた野球の原点だった。
　そこから帝京の野球は変わった。「気配り」を大切にする野球。「負けてる相手の辛い気持ちを考えるだけで野球観が変わってくる。相手のキャッチャーが放った面は絶対とってやれ。それで縦じまでしっかりふいて渡してやれ。」監督が考えた帝京のノルマは、ただ勝つだけじゃない、高校野球ファンを納得させる完璧な勝ち方をすることだった。それが監督の「こだわり」なのだ。こんなこだわりさえなければ東東京の古豪は今でも、優勝できるそれなりの力は持っているのかもしれない。だが、くりかえしくりかえし口に出される「納得するような勝ち方」「こだわり」を貫く、そのしっかりと光る眼には、今の帝京の挑戦が映し出されていた。それが故に、甲子園では西日本勢の粘り強い野球を前に悔し涙を流してきた。
　こんな話がある。09年、センバツ出場を逃したチームは特にピッチャーの制球に悩まされていた。当時のキャッチャー原口はミーティングでこう言ったのだという。「ピッチャーのフォアボールが多すぎる。フォアボール１つにつき、走ろう。」「大丈夫、俺も走るから。」それからの毎日、ひたすら走った。ピッチャー、キャッチャー、監督までもぐらんぐらんになりながら。そしてチーム全体で。そこからチームは変わった。完璧を求める帝京高校らしい話だ。｢監督としてこんなに嬉しいことはない｣と言う。

　そして今、またピンチが訪れている。４月、夏の甲子園予選のシードが決まる春の大会で帝京は初戦敗退という壁にぶちあたった。ノーシードで挑む夏は実に22年ぶりだ。
「夏に挽回しよう。」監督は選手たちに伝えた。負けたときは一番成長するときなのだと。今まで、東東京で完璧に勝ってきた帝京に「初戦敗退」の文字は重くのしかかっただろう。しかし、負けを知ったチームは驚くほど強くなる。ノーシードで一から、その機動力、期待の投手陣、攻撃の手を決して緩めない強力な打撃で、東東京だけではない、ほかならぬ甲子園という舞台で「敗れざる者」として君臨してくれるはずだ。
　前田監督は帝京の選手たちを愛している。選手のことを語るときのこれ以上ないほど愉しそうな表情を見れば誰もがそう実感するだろう。以前とは違う帝京で優勝することは「反面嬉しさ倍増！」だそうだ。ハキハキと語る前田監督の細い眼からは帝京の未来への展望が確かに見えている。

2010年5月